この世の全てのモノは借り物だ

ニート的ミニマリスト幸福論

日本の発展よりも自分の幸せのほうが大事

先週日曜日、待ちに待ったphaさん出演の「ザ・ノンフィクション 会社と家族にサヨナラ ニートの先の幸せ」が放映された。


僕も見たが、とても面白かった。


随所にphaさんの優しさを垣間見られたし、やはりそのユルさに癒された。


見終わった後の感想としては
もう今の日本に住んでいる人間は、国の発展とか考えないで自分の幸せを大事にしたほうがいいなということだった。


もう我々は嫌々仕事して国のGDP云々ということを気にしなくていいと思う。


国のGDP云々などということは、それを考えることを仕事にしている人が考えればいいことだからだ。


そんな形の貢献は時代遅れで効果は低い。


どうしても日本という国に貢献したいなら
お金が無くてもいつも機嫌良く家族や周りの人に接するとか、誰かの何かを手伝うとか、誰かピンチの人を手助けするとか
そういう方向の貢献したほうが実質的な効果は高いんじゃないだろうか。


番組を見ていると、本当に今のさもしい拝金主義が滑稽に見てる。


今の時代「頑張って働いてお金を稼いでいい暮らしをする→その暮らしを維持するためにさらに働かないといけなくなる→頑張って働いて・・」の無限ループは本当にダサいし時代に合ってない。


phaさん達のように働いていても働かなくても少しの働きでも集まって連携を取りながら生きていく方向を選択肢にするべきだし、メジャーな選択肢になるべきだろう。


とにかくきちんと働かないと人間失格という社会は息苦しいし、そんな社会に生きたり、ましてや過労や長時間労働でその社会の維持に加担するのは個人として完全に不幸だということだ。


かつて村上龍のテレビ番組で「日本は変わらない、変わるのはあなたです」と言っていたのを思い出した。


まさにそういうことだろうと思う。

 

甘いだの自分勝手だのとphaさん達を批判する人たちは、勝手に自分の我慢人生を否定された気になっているだけだろう。

 

批判するということは、本当は今の生活が嫌で嫌でしかたがないのだ。

 

嫌だけど我慢して働いている自分を肯定して頭をヨシヨシしてほしいだけなのだろう。

 

こういう人たちのほうがよほど甘ったれだと思うのは僕だけだろうか。

 

こういう支配者層の支配に無自覚で従順な人たちを奴隷と言う。

 

かつて奴隷は、奴隷船の中で自分の足に繋がれた鎖の綺麗さを自慢し合っていた。

 

結婚しただのどこの会社で働いているだの、そんなことは、奴隷の鎖と同じことだ。

 

本当に自分の仕事に誇りを持って選択的に仕事をしている人が、phaさん達を批判するだろうか。

 

自分の生き方に何の後悔も無い人は、他人の行き方を批判したりはしない。

 

嫌な仕事を嫌々やっていて、でも貧乏で心も貧しくて、なおかつ自分の頭で自分の生き方とこの世の中を変えられない変える気も無いどうしようもない人が批判する。

 

差別と同じだ。

 

弱者がさらに弱い者を差別する。

 

その考えが自分や自分の子供達の首を締め付けていることに気づかずに。

 

もしphaさん達を見て、ムカムカしたり批判的になったりしたら、今のあなたは現代の奴隷だ。

 

死ぬまで搾取され続けるだろう。

 

永遠に今の不幸な状態のままだ。


あと、驚いたのは小林銅蟲さんがかつての僕と同じような状況にいるということだった。


僕も働かず今の奥さんと一緒に住んで、彼女の食事や弁当を作っていた。


あの頃も毎日がとても楽しかった。


小林銅蟲さんたちも楽しそうに暮らしていた。


決して恋愛を礼賛するわけじゃないけど、結婚とか一緒に住むとかいうことって
ああいう何気ない楽しさの共有が原点なのだ。


その楽しさにお金はあまり関係ない。

男にとって妻にしたい女性

山崎夕貴アナが若手芸人と熱愛したとかで好感度が上がっているらしい。


女性にとっては特別美人でなくて特別高学歴でもないということから好感されているらしい。


では男からしたらどういう存在なのだろうか。


男からすると、山崎アナは「妻」にしたい女性となる。


愛人にするには美人ではないし華やかさもないし色気もない。


男にとって愛人とは、恋人100%、つまりモノ、オモチャだ。


自分の都合のいい時に、身体と心を貸してくれればいいと思っている。


つまり美人でおっぱいが大きければいい。


では男にとって妻とはどういう存在か。


妻とは仕事仲間20%、かつ恋人50%、かつ母親30%な存在だ。


愛人と妻の違いは、構成要素の割合で決まっている。


ここで注目すべきは「恋人成分」が両方に入っていることだ。


これは、男が愛人も妻も同時に好きでいることを表している。


愛人ができたからといって妻の恋人成分は変わらない。


恋人成分を持つ対象が一人増えただけなのだ。


さらにいえば、男は別名保存と言われる理由もこれが原因だ。


新しい恋人ができても旧恋人への恋人成分は変わらない。


妻には愛人と違い仕事仲間20%が入っている。


これは、家族という会社の共同経営者であることを表している。


20%ほどの仕事能力と働きを期待しているということだ。


母親30%は、文字通り母親のように無条件に自分を受け入れてもらいたいという甘えを表している。


もちろんこの割合は各人で異なるはずだが概ねこのようなものだろう。


男はマザコンが多いから仕事仲間成分よりも母親成分を多くした。


さて山崎アナだが、彼女の経歴や人柄や容姿は、妻の構成要素をバランス良く満足しているように見えないだろうか。


仕事仲間としては、大手企業の正社員かつ抜群のアナウンス能力で十分だ。


恋人としては、そこそこ可愛くて清潔感があり楽しそうな人柄が魅力的だし、母親としては、健康そうで優しそうな雰囲気が当てはまる。


山崎アナが狙ってやっているかどうかは別にして、このようにして山崎アナは「妻」にしたい女性となる。

子育てでは夫婦関係が一番大事

最近「イクメン」という言葉を聞かなくなったように思う。


男性の育児が当たり前になってきてイクメンという言葉が不自然に感じられるようになってきたのだろう。


「家族サービス」という言葉も今では古臭い。


男性の子育てが当たり前になってきた今、子育てにおいて何が一番重要なのだろうか。

 

シングル以外の場合でいうと、それは夫婦関係だと思う。

 

なぜかというと、夫婦関係さえ良好なら全てが上手く回るからだ。


子育ての目標を「子供が幸せな人生を歩める人間になる」とするとして、その目標達成に必要なリソース(お金や親の関わり等)とリスク(子供の病気や怪我等)がある。


親としてはできるだけ効率よく必要なリソースを子供に供給してリスクを回避(予防と最小化)する必要がある。


もし夫婦関係が良好であれば、お金が無くても病気になってもリソース供給とリスク回避を守れる可能性が高い。


片方が病気になっても、もう片方が稼げばいい。


意思疎通も良いだろうから、お互いのできることできないこと、得意不得意を効率よく運用できる。


でも夫婦関係が悪ければ、何かあれば一気にリソース供給とリスク回避が破壊されて子供にシワ寄せがいってしまう。


つまり子育ては子供第一ではなく、配偶者第一だということになる。


お父さんとお母さんの仲が良い、これを死守できていればひとまずは安心だと思う。


お金や社会的地位がなくなっても良好な夫婦関係はどうすれば構築できるのか。


それは「ありがとう」と「ごめん」を言葉にして伝えるだけでいいと思う。


「ありがとう」と「ごめん」というと簡単に思うけど、仕事相手ではなく夫婦間で適切なタイミングに言葉にできている人がどのくらいいるだろうか。

男に媚びない女性が幸せになる

英国人歌手のアデルが素晴らしい。

 

彼女のことは最近知った。

 

ライブ映像とかをみるとさらに良さがわかる。

 

良さと言っても発声がいいとかそんなこと位だけど、何より力強い歌声が魅力的だ。

 

まだ20代だけど、MCの話し方も風格が漂っている。

 

媚びない感じもいい。

 

僕は体型も服装もメイクも、男に媚びるところがない女性が好きだ。

 

だから宇多田ヒカルも好きだ。

 

同い年だし応援している。

 

でも今年の紅白は良くなかった。

 

明らかな練習不足で声が出ていなかったけど、悪びれるところがなくて良いと思った。

 

日本の女性は男性に媚びすぎている。

 

日本の女性に非があるわけじゃない。

 

日本の男性の要求に答えているだけだからだ。

 

要求とは、従順で未熟な男好みの外見と内面だ。

 

それは男性の女性への恐れの裏返しでもある。

 

そもそも男は女が怖いものだ。

 

これは日本の男に限らない。

 

自分より従順で未熟な女ならば、自分に歯向かうことはないし、自分が常に上に立てるし、怖くない。

 

古臭いクソのような価値観だ。

 

でも日本に限らず世界中の男の価値観は長らくこうだった。

 

だから世界中で長く女性は抑圧されてきたし、今も抑圧されている。

 

本当は女性なんて怖くも何ともない。

 

美人も不細工もみんな普通の女性だと、ナンパ師は教えてくれた。

 

それは実際にナンパをしてみるとよく分かる。

 

美人も不細工も皆つまらなそうに毎日を過ごしていて、でもいつか幸せになりたいと思って生きている。

 

そして男の暴力性を恐れている。

 

声をかけて拒絶されるその瞬間に、女性の思考が頭に入ってくる。

 

自分の都合に関係なく、女性がどういうふうに思っているか。

 

それを学ぶにはナンパは最適だと思う。

 

僕のように連れ出しとか何の成果も残せなくても、学ぶことは多かった。

 

ナンパの声掛けには女性は媚びない。

 

バッサリと拒絶されてショックを受けると同時に、媚びない女性は強くて素敵だなと感じる。

 

女性には男に媚びないで生きてほしい。

 

俺に媚びろ、そうすれば可愛がってやる、という男の要求は堂々と断ってほしい。

 

なぜかというと、可愛いは作れるとかいって男の要求に答えていると、どんどん自分をモノのように扱ってしまい、心が空っぽになって何が幸せか分からなくなるからだ。

 

男に好かれるために絶え間なく消費することは早くやめるべきだ。

 

それが幸せへの近道だと思う。

 

男に媚びない女性が幸せになる。

ハードルを高くしない生き方は楽

菊川怜が結婚してその旦那に婚外子がいて云々という報道には正直驚いた。

 

まずそんなに女性を妊娠させるほどの元気がある男がいるんだということ。

 

僕では例え資産200億あってもそんな元気はない。

 

いろんな女の子とスケベしたいなーと思うけど、さすがに避妊くらいはすると思う。

 

それから、子供を産んでもらって子育てしないというのも理解できない。

 

男も子供がかわいいから子育てしたいと思うものだけど。

 

まあそこはそれぞれの考えがあるのだろう。

 

それから、菊川怜のお父さんは反対しなかったのかということだ。

 

僕が同じ立場なら絶対に反対している。

 

結婚にはリスクが付き物だけど、それにしてもこの結婚はリスクが高すぎるからだ。

 

また旦那のそれは事実上の一夫多妻制度だと思うからだ。

 

自分の娘は、娘だけを見守ってくれる旦那と結婚してほしい。

 

一方で、菊川怜が旦那のトロフィーワイフだというステレオタイプ的な見方があるが、エリート女性に言わせるとトロフィーなのは資産200億の旦那のほうらしい。

 

そう言われると合点がいく。

 

だから菊川怜はすべてを打ち明けられてもこの結婚を決めたのか。

 

トロフィーを手にするのは自分だと思っているなら自然な成り行きだろう。

 

しかし、ここで僕が感じるのはなぜそこまで幸せのハードルが高いのかということだ。

 

旦那をトロフィーだと言ったエリート女性も同じなのかもしれないけど、どうも上昇志向が強い人は幸せのハードルが高い。

 

有り余る成功を達成してもなぜそこで満足しないのか。

 

なにも2百億じゃなくてもいいんじゃないか。

 

そんなに金もってどうするんだと思うけど、

菊川怜であらねば生きていけないようなプライドがあるのだろうか。

 

成功体験があるエリートは、そのゆえにそこから外れた生き方ができなくなるという。

 

エリートまたは成功者を降りた自分では生きていけないし、生きたくないのだ。

 

それも辛い人生だなと思う。

 

最近「ウツぬけ」という鬱病の経験者の体験談が書かれた漫画を読んだのだけど経験者に共通するのは、発病前に何らかの成功体験をしていることだった。

 

成功体験は一見すばらしいけど、強力な毒にもなるということだ。

 

みんなもっとカッコ悪い自分や駄目な自分を認めて楽になればいい。

 

そうすればその瞬間にこの世は極楽になる。

 

生きているだけで良くがんばってるというくらい志低く生きていていいじゃないか。

 

人間なんてそれくらいでも十分幸せに生きられる。

おっさんが汚いのは甘え

日本のおっさんは臭くて汚いイメージがあるが、これは事実だ。

 

僕も30代半ばになったので年齢的には十分おっさんだと思う。

 

そして他人から見ると十分に汚く見えると思う。

 

自分の汚さは自分では気づかない。

 

誰でも毎日のように汚いオッサンを目にしているだろう。

 

通勤電車の中、職場、家の中、お客。

 

至るところで汚いオッサンを見ることができる。

 

でも自分が他人に同じように見られていないと言い切れるだろうか。

 

あなたもきっと同じように汚いオッサンと思われてはいないだろうか。

 

日本人は他人の目を気にし過ぎると言われるが、それにしては他人からどう見えるかを気にしてないオッサンが多いのはなぜだろうか?

 

僕は以前ナンパをしていた時に、ナンパ講習を受けたことがある。

 

そのナンパ講師は率直に他人から僕がどう見えているかを教えてくれた。

 

目の周りが黒ずんでいるから表情が暗く見えるんですよ。とか

 

褒められるのは禿げていないことですね。とか

 

アトピーだと生理的に無理だと女の子が思うのを覚悟して下さい。とか

 

思ったほどどもらないじゃないですか。とか

 

うすうす自分でも気になっていた自分の悪い点をグリグリされた。

 

しょうがなくてつまらなくて良くない自分を直視させれられた。

 

とても辛かったけど、これはかなり貴重な体験だった。

 

普段の生活では皆利害関係があるから、率直に容姿をどう思っているかなんて教えてくれない。

 

あなたは本当に自分がどう見えているかを知っているだろうか?

 

どんなに仲のいい友達でも、恋人でも、奥さんでも、やはり多少オブラートと包んだ言い方をするはずだ。

 

気分を害してしまってその場の雰囲気が悪くなったり関係が悪化することを避けるからだ。

 

だから、完全に客観的な容姿の意見を聞きたければナンパ講師に聞くべきだろう。

 

僕がナンパ講習を通して学んだことは、ナンパの技術ではなく、今までどれだけ奥さんに甘えていたかということだ。

 

夫婦関係があるからまたは恋愛感情があるから、奥さんは僕のことを大目に見てくれていただけで、何のフィルターもかけてない僕はしょうもない容姿だった。

 

甘えて自分の容姿を実態より高くみていた。

 

人間は加齢によって醜くなる。

 

それ自体はしょうがないのだけど、自分がどれだけ醜くなっているか、それを正確に把握して、さすがにこれ以上は汚らしくなるとマズいというラインを死守することは難しい。

 

オッサンは最低限汚らしくない自分というものを放棄している。

 

汚らしくて何が悪いと開き直っている。

 

なぜか、それは甘えているからだと思う。

 

世間に、年齢に、社会に、人間関係に甘えている。

 

でもやっぱりまともに考えてあまりに汚らしいのは醜くて人としてダメだと思う。

 

他人に対する配慮がなさ過ぎる。

 

お金は必要ない。

 

今はまともな美容室のカットでもシャンプー無しでクーポンを使えば3000円で利用できる。

 

1000円カットは未だに出来が悪いが、3000円の美容室はお任せで似合う髪型にしてもらえる。

 

短髪にしてもらえば2ヶ月に1回でまともな髪型をキープできる。

 

2ヶ月で3000円なら十分リーズナブルといえる。

 

服にもお金はかからない。

 

小奇麗な服装をすればいいのだから、夏場ならTシャツ、冬場ならシームレスダウンパーカ、それからジーンズで、身体に合ったサイズのものをユニクロで買えばいい。

 

セール時を狙えばTシャツなら一枚390円で買うことができる。

 

シームレスダウンも7900円、ジーンズだって1290円で買える。

 

小奇麗な格好になるための服の選び方は、メンズファッションバイヤーのMBさんの本を1500円くらいで買って読めば誰でも習得することができる。

 

僕は実際に自分で買って読んだが目からうろこだった。

 

写真入りで分かりやすく作ってあって、この本なら誰でも理解できる。

 

靴もニューバランスでなくていい。数千円のコンバース、お金をかけてもスタンスミスで十分だ。

 

今の時代は特別なセンスがなくても、一万円もあれば汚らしくない小奇麗な格好に必要な全てが手に入る。

 

だからあまりに汚らしい格好をしているのはいろんな意味で甘えだといえるだろう。

 

客観的な自分を直視して、そんなに気にならないなら、もちろんそのままでいいと思う。

 

ここで重要なのは、自分を肯定的に捉えることで幸せな気分で生きるということだからだ。

 

他人の目を気にし過ぎて不幸になっては本末転倒だ。

 

まずは自分が思っているよりもカッコ悪い自分を正確に認識して、それを受けれることをする。

 

そうすると、カッコ悪い自分でも生きているし、これからも生きていていいんだと肯定的に捉えることができるようになる。

 

僕の場合は、ナンパで玉砕しまくって、真実の自分を知って、自分なんてその程度のものなんだなと、心が軽くなった。

 

カッコ悪くてしょうもない自分を受け入れることができて、変に格好つけなくてもよくなった。

 

それから妻への感謝の心が生まれ、それでも少しでも小奇麗にしとこうと美容に目覚めた。

 

変な甘えを外すことで客観的な自分を直視して、自分を整える。

 

そうすることで、自分を好きになる、そこまでいかなくても肯定的に捉えられるようになる。

 

そうなれば、格好いい自分でいなきゃとか、できる自分でいなきゃとか、何者かにならないといけないとか、そういう変な自意識に縛られずに気楽に生きていける。

 

気楽に生きることは、幸せにつながる。

 

心を縛る鎧のようなプライドは捨て去ろう。

 

 

旅する人生を送りたいわけじゃない

少し前にノマドワーカーとか多拠点生活とかに興味があって、本田直之さんの本をかなり読んでいた。

 

本田さんはハワイと東京をメインに生活していて、仕事も両方でやっているそうだ。

 

ハワイでのびのびしながらサーフィンをして仕事をしているらしい。

 

その様子を写した写真などはみていてワクワクする。

 

そんな自由な生活に憧れたし、今でもいいなぁと好意的に見ている。

 

あと、本田さんはミニマリストでもあるようでLess is moreという本は電子書籍がなくて今も手元に持っている。

 

Less is moreとはミースという建築家の言葉で、本の題にするセンスもいいし何より本の中身にピッタリだった。

 

装丁もスッキリしていてとてもいい。

 

今では僕のバイブル的な本になっている。

 

でも本田さんの人生や生活を知っていくうちに、僕とは理想の生活が少し違うことがわかってきた。

 

本田さんは自由な生活をする代わりに子供を持たないことに決めているそうだ。

 

奥さんとも相談の上らしい。

 

ここが大きく違う点だ。

 

僕の敬愛するミニマリストの人の中にも、結婚を不必要なものと捉える人もいる。

 

そして子供も持たない、または持ちたくないと考える人もいる。

 

当然、それぞれの考えがあるだろう。

 

でも僕の中では愛する妻との恋愛と結婚生活や、その妻との間に出来た子供との生活は無くてはならないものだ。

 

結婚という制度にはメリットは多い。

 

今は結婚に対してネガティブな見方が強すぎるような気もする。

 

これは優先順位の問題だと思う。

 

家族との時間をゆっくりたっぷり楽しみたい、そんな僕のような人間には、人生は旅だと言われてもいまいちピンとこなくなってしまった。

 

僕にとって人生はゆっくり味わうもの。

 

それを可能にすることが、自由になるということ。

 

旅をしなくても、多拠点でなくても自由に生きる道はあるはずだと思っている。