この世の全てのモノは借り物だ

ニート的ミニマリスト幸福論

働き過ぎは健康に悪い

働き過ぎは健康に悪いというのは当たり前のことだ。

 

それが分かっていても働き過ぎずに幸せな生活をしている人は少ないのかもしれない。

 

理由はお金が必要だからだ。

 

そしてその理由は曖昧だったりする。

 

本当にそのお金は健康で若い時代の時間を犠牲にしてまで稼ぐ必要のあるお金かどうか。

 

その精査は案外どんぶり勘定だったりするだろう。

 

若い世代のコスパ重視傾向を批判するオッサンがいて、本当に良いものを知らないのにコスパなんて分からんだろう、高価な本当に良いものを知れ、とか言うらしい。

 

時計だったらロレックスを知らずに時計のコスパを語るなとか、銀座のクラブを知らずに飲み屋を語るなとか。

 

こういうオッサン世代を見ると本物のバカだなと思う。

 

今の若者のコスパとは、もっと根本的な費用対効果のことで、例えば時計の本来の役割を考えればスマホで足りるから時計は買わないとか、飲み屋で不味いツマミに数千円払いたくないからその金で美味しいごはん屋に行こうとか、そういう意味だ。

 

こういうオッサン世代に、働き過ぎは健康に悪いから仕事はほどほどにして残りの時間は好きなことします、と言っても理解はされないだろう。

 

オッサン世代が今後変わることは無いから、オッサンの変化に期待してはいけない。

 

やるべきことは、静かに、気づかれないように、奴隷のフリをして、自分の時間を確保していくことだ。

 

レジスタンスのようにジワジワと蝕んでいこう。

 

決起にはまだ早いと思う。

 

でも仲間は今どんどん増えている。

土屋アンナ批判は女性蔑視だ

僕は何故か土屋アンナが好きだ。

 

見るからに生意気そうでキツそうな見た目だし美人だからさぞ男にチヤホヤされてきてその上男好きなんだろう?

 

という男としての防御本能が反応する反面

 

たぶんこの人は好きな人と一緒にいたくてその都度子供を作りたいという欲求に素直な人、真っ直ぐな人なんだろうな

 

と好意的に思う自分がいる。

 

そういう人を批判する人間はクソだ。とおもう自分がいる。

 

土屋アンナと比べるわけじゃないんだけど、あのエディット・ピアフも散々ふしだらな女とかいって嫌われた。

 

でも彼女の愛は率直で本物で、それを表現した愛の讃歌は素晴らしい。

 

僕には土屋アンナ批判に女性蔑視の匂いを感じる。

 

欲望に素直な女は、社会秩序の安定には都合が悪い。

 

そんなオッサンとオバサンのエゴがチラつく。

 

女子の敵は女子だなとも思う。

 

ヒラリーを落としたのはヒラリー的でない多数の女性らしい。

 

家族のためにクッキーを焼くお母さん達がヒラリーを落としたということなのだろう。

 

みんな自分の人生を肯定したいし、正しいものであると思いたいのだ。

 

誰かの人生を肯定することが自分の人生を否定することになるならば、その誰かの人生を否定することで自分の人生を肯定しようとするだろう。

 

僕も耳が痛い。

 

誰かの人生を否定することは幸せを遠ざける。

 

自分と誰かを比べた時点で不幸になることは決まっているからだ。

無頓着さが男の魅力

婚活や恋愛に関する著書を書いている川崎貴子さんによると

『自然体で、自分の強いところも弱いところもさらけ出せるような「無頓着な男性」に女は魅力を感じる』らしい。

 

最近この言葉を見かけて名言だなあと思ったのと同時に思い出したことがある。

 

先日、娘を保育園に送ったときのこと。

 

いつものように教室に入ると

娘のクラスの園児二人が殴り合いのケンカをしていた。

 

二人共泣きながら殴り合っていて、それを先生が止めようと大声を出している。

 

娘の保育園では、園児が怪我をすると先生は保護者に経緯を説明しなければならない。

 

怪我を未然に防げなかったことに対して謝罪もされる。

 

園児が園児同士のケンカで怪我をした場合、親同士の紛争をさけるために被害者側に加害者名は明かされないが、もう子供が話せるので誰にやられたかは大体わかってしまう。

 

先生もそれが分かっているかなんとか怪我をさせないように必死に止めている。

 

傷が残ったり、大怪我になれば訴訟に発展するかもしれない。

周りの子供も泣きだした。

子供も大人も自分のことで精一杯だった。

 

教室には朝の清々しさとはかけ離れた殺伐とした空気が満ちていた。

 

そんななか、一人だけニコニコしながら電車のおもちゃで遊んでいる男の子がいた。

 

この子は普段あまり言葉を喋らない。

 

こっちが話しても何も答えずにいつもニコニコしている。

 

普段は気にも留めないことだったのだけど、このときは違った。

 

彼以外の全員が教室の雰囲気に狼狽している中、彼だけは純粋におもちゃで遊ぶ時間を楽しんでいた。

 

その遊びがどれだけ面白いかを僕にジェスチャーで伝えようとしている。

 

そのとき僕はこの殺伐とした教室内で誰よりも自分の心を落ち着かせているのは彼だと思った。

 

「心配するな。こんなのいつものことだよ。それよりこの電車を見てくれ。かっこいいだろう。」

とでも言いたげな目をしている。

 

そんな彼を見て僕がまず心を落ち着かせることができたし、おそらく娘もそうだったと思う。

 

彼は大事なことに集中していて他人のケンカなんて気にも留めない。

 

そんな彼のプラスの精神状態に彼自身は気づいていない。

 

もちろん私や娘の精神状態を救っていることにも気づいていない。

 

私から見て強くてカッコイイ彼を彼自身は知らない。

 

「今君はおじさん(私)から見てこんなにかっこいいのに

それを君は分からないのか!?」

 

その知らなさ、気づいていなさ、さりげなさが

とても作為的でなくて、自然なものだからなおさら格好良かった。

 

はっきりいって僕が娘だったら彼に惚れていたと思う。

 

そのくらいあの空間で彼は魅力的に見えた。

 

女性からみて男の魅力とはこういうことかもしれない。

大金を使っても幸せになれない人達

ハリウッドセレブの月の生活費が2億2600万円だったり、大物芸能人の食事代が2000万円だったりしたらしい。

ギャンブルで数百億すった御曹司もいた。

もちろん本人の所持金なんだから使い方は本人の自由だ。

でも、僕なんかはそんな大金を使わないと幸せになれないのかと思うと、大金を得る労力を考えると、辛い人生だなと思う。

そんな大変な思いをしなくても、幸せになる方法はたくさんあるのに。

なんてコスパの悪い生き方だろうか。

その大金で何を得たのか?

一時の快楽だけだろう。

そんなもののために人生があるのだろうか。

それとも大金が人を変えるのだろうか。

 

低スペックでも幸せになるために

低スペックな人間に限らず、人は誰しも幸せになりたいと願っていると思う。

僕が知っている幸せな人の共通点は、礼節があって優しいということだ。

どう優しい人かというと、目下の人、年下の人、サービスを提供してくれる人などに対して優しい人。

上司とかお客さんとか友達とかじゃなく、優しくしてもほとんどメリットがない人に対して優しいということだ。

皆分かっていることだけど、残念ながら世の中のほとんどの人は、そういう意味では優しくない。

日本人は大人しい人種だと言われているが、これは他人に優しくて思いやりがあるということではなくて、不平不満を口にしてないだけだ。

心の中では汚いことを考えていたりする。

ネット掲示板を見れば一目瞭然だろう。

デモも暴動もなくて犯罪率は低いけど、同調圧力が強くて行動に起こせないだけだ。

日本人は素晴らしい面も多いけど、そういう意味では非常に陰湿な人種だと思う。

優先席で妊婦さんに席を譲らずに寝たふりをするやつ、飲食店で店員に横柄な態度を取るやつ、年下というだけで自分より格下に扱うやつが多すぎる。

こういう人間は普段何を考えて生きているんだろうか。

正月に初詣に行って一年の平安と幸せを神様にお願いしたんじゃなかったのだろうか。

なぜ神様へのお願いと日頃の行いが無関係になるのか?

神様に自分の幸せを願っておいて、他人に対して平気で無礼な態度を取るやつは一生幸せになることはできないだろう。

自分の幸せを願うのなら、まず人が見ていないところで他人に親切にすればいい。

こういうことができる人は、低スペックでも幸せになれる。

元銀行員の悲しい老後生活

以前NHKで老後のドキュメンタリーで、元大手都市銀行員のおじいさんの老後生活を見た。

おじいさんはこれでもかと自分の過去の功績を自慢していた。

現役時代に他人からもらった名刺を大事に持っていて、自分が載っている会社の記念誌のページを見せてオレが三菱だという感じで誇らしいと言っていた。

でも激務だったからか家族は家を出ていってしまい、孤独な生活のようだった。

若い頃に出張先で見た尺八を仲良く吹く老夫婦が憧れで、ああいう夫婦になりたかったと今の孤独な自分と比べて悲しくなり、カメラの前で泣いていた。

これはどう考えても幸せな老後ではない。

悲惨な老後だ。

僕は彼に責任がなかったわけではないと思うけど、ほとんどは高度経済成長とその奴隷制度の被害者だと思う。

なんとも悲しくなる番組だったけど、大きい教訓を得た番組だった。

今のままの労働環境で生涯働くと彼のような悲しい一生で終わってしまう。

彼はお金があったからまだ救いがある。

退職金がかなり出たのか良さそうな老人ホームに住んでいた。

若い世代にはそのお金もない。

どこかのレコード会社の社長が、仕事が好きで働いてる人間の労働時間を規制するなと言っていたけど、正直頭がおかしいんじゃないかと思う。

必要以上に働くのはそういう働くのが趣味な人に任せればいい。

すべての人が仕事を通じて幸せになる必要はない。

経営者にその価値観を強要する権利はない。

ももらえない上にこんな悲惨な老後のために、若い頃の多くの時間を仕事に捧げろというのか?

奴隷制度はそういうことを平気で言う。

そもそも無茶苦茶なことを我々に要求しているのだからまともに相手にしてはいけない。

普通の人は必要な分だけ働いて、若いときから自分の時間を楽しめばいい。

高齢者の年齢引き上げ

医学学会から高齢者の年齢は75歳からでいいんじゃないかという提言があったようだ。

年金とか医療費が足りなくて国としては高齢者の年齢を引き上げる方向に向かっているのだろう。

75歳というと平均寿命よりは若いといっても死ぬ人も多く出てくる。

だから生涯働く気でいて下さいとなるのだろうか。

私の祖父は74で亡くなくなった。

それでも孫としては特別早い別れだったという思いはなくて、私はその時成人していたし、十分生きたなという思いが大きかった。

思い出もいっぱいあるし、何より仕事も遊びも十分楽しんだという意味で大往生だと思う。

その経験もあって私はまあ74歳くらいまでには死ぬだろうと思って生きている。

むしろ80、90まで生きた自分が想像できない。

そんなに長生きはしたくない。

というか老後というものに期待していない。

だから国から生涯働いてくれと言われても、まあそうくるだろうなと冷静に受け止められる。

でも、現役時代に仕事だけに人生を捧げて、老後に楽しみをとっておいた中年の人達は、冷静ではいられないと思う。

のんびりした老後というご褒美があるからこそ辛い長時間労働とかパワハラとかに耐えらるのだから。

それを今更無しにされてもそれは困るだろう。

でも、私のような人間は困らない。

こういう奴隷制度からは距離を取らないといけないと思って生きているからだ。

「のんびりした老後は廃止しました。生涯働いてくれ。ただし労働環境は今のままで」と言われて我々に打てる手は2つしかないと思う。

最初から働かないか、または最初からのんびりした老後並の生活をするかだ。

私は最初前者で、後に結婚したりして物入りになったので後者を選択して生きている。

月〜金働き、残業は無しで、毎日家族で手作りの温かい晩御飯を食べている。

土日はずーと家族でのんびり過ごす。

家も小さな賃貸で車もないけどそれで十分幸せだ。

その幸せを噛みしめるように毎日を生きていれば、老後というご褒美なんて全く必要ない。

私は健康と良好な人間関係と温かい食事があれば幸せでいられる。

低スペックで幸せになるには、そういう幸せの条件を自分で探す必要がある。