すれ違いざまに舌打ちす人から思ったこと
その人を批判しているわけじゃない。
今日会社からの帰り道、僕が駅の階段を降りてるとき、幅が狭くて邪魔だったのか反対方向から来た人がすれ違いざまに舌打ちをした。
それはもう、前を塞ぐ形で歩いてきたイライラの原因である僕の耳に叩き込んでくるかのような絶妙なタイミングだった。
凄いいいタイミングだな、職人のようだ、と感心するのと同時に、何も立ち塞がってるわけでもなし狭い階段なんだし、嫌なことをするなよなぁと悲しい気持ちになった。
よく見てなかったけどその人は小奇麗な服装のおばさんだったように思う。
舌打ちなんてしなさそうな人なのに人は見かけによらないものだなと思った。
その人は僕が邪魔だったのだろうから、おそらく僕にその場所を歩いてほしくなかったのだろう。
でも駅の階段は公共の場所なんだから誰でも営業時間内で変な歩き方でなければいつでも歩いていいはずだ。
だから彼女の考えは甘えだということになる。
それで思ったのは、舌打ちをされて気分が悪くなるということは、僕も他人に変な期待していて、おばさんと同じように他人に甘えてるなということだった。
僕が他人との付き合い方が上手いなーと思うphaさんは、自分と他人は違う動物くらいに違う生き物だと思ってると言っていた。
僕はさすがにそこまで思えずに、違う人間だからなー、くらいに思っているけど、phaさんくらいの心構えもいいなと思った。
他人に期待しないから対人関係は楽なはずだと思う。
そして、このスタンスは僕の好きなお釈迦様の考えと似ている考えでもある。
他人も社会も自分の都合の良いように動いてはくれないし変わってもくれない。もしそう思うならそれは傲慢というもの。というようなことをお釈迦様は言っている。
お釈迦様は、川が流れるように、自分の都合とは関係なく勝手に他人は他人の都合で動くのだから、まぁ気にせずほっとくのがいいよ。とアドバイスしていて、気にせずほっとく方法を瞑想とかの形で色々残してくれている。
改めてお釈迦様はミニマリストだなぁと思うのと同時に僕はまだまだ未熟で、だから生きるのが苦しくてめんどくさいのかなぁと思った次第だ。
最近特に家族の病気が見つかったりして、もう人生が苦しくてキツくてしょうがない。
でも、そもそも自分の都合の良いように人生が運ぶわけないのだから、まぁ自分の人生終了までは他人に期待せず楽に生きたほうがいいと思った。
あと、自分の人生にもさほど期待しないようにしようと思う。
そうすれば他人と自分両方に期待しないことになって、全てのことを川の流れのように感じるようになれるのではないだろうか。
苦しくなくて楽な人生にしてくれって感じだ。