筋トレを始めたら疲れにくくなった
2ヶ月ほど前から筋トレを始めた。
きっかけは保育園の園長先生だった。
保育園の園長は忙しい。
管理職だから担任はないけど、人手不足だからヘルプでいろんな作業をする。
保母さんの作業は主に肉体労働だ。
また、100人からの園児の命を預かっているから精神的にも相当なプレッシャーだろう。
それをこなす体力は生まれつきのものかなと思っていたのだけど、懇談会で趣味は筋トレだと教えてくれた。
自宅に器具をおいて結構本格的にトレーニングしているらしい。
その話を聞いてもしかしたら園長先生の凄い体力は筋トレの成果かもしれないと思い、僕もやってみようと思ったのだった。
で、2ヶ月やってみると、劇的に見た目は変わらないのだけど、体力面で大きな変化があった。
簡単に言うと非常に疲れにくくなった。
日常生活の中で「だるいなー」みたいになることがあまり無くなったと思う。
もちろん多少プラシーボ効果もあると思う。
でも、満員電車で立って帰宅してもあまり疲れていない時は驚いた。
以前は疲れるから座って帰りたくてワザと遠回りして帰っていたのに。
これは結構肉体的に楽だし、だるい状態に耐えなくていいので精神的にも楽できている。
食事にも気を使うようになった。
以前はご飯と揚げ物とかを詰めた弁当を会社に持参してたのだけど、パスタか白飯にブロッコリーとニンジンとパプリカを茹でたもの、それに鳥胸肉を弁当にしている。
たんぱく質と炭水化物と野菜をバランス良く食べるようになった。
睡眠も7時間は取るようになった。
朝と夜、トレーニング後にはプロテインをオレンジジュースで割って飲んでいる。
良い循環ができつつあるし、これからも継続できそうな気がする。
「だるい」といえば僕の大好きなphaさんなのだけど、phaさんももしかしたら筋トレすると少しだるくなくなって楽になるかもしれない。
おっさんは徐々に何もできなくなる現象
人はなぜ偉くなると簡単なことができなくなるのだろうか。
僕の勤務先で偉くなった40代の人は、自分で会社の電話の電話帳を調べることも出来ない。
その人が20代の時にはもう電話帳機能があっただろうから若い頃はできたはずだ。
今でもちょっと触れば分かるはずだ。
こんなことは新卒の人間が覚えようとしていることなのに。
偉くなった40代の人は自分で調べられないものだから事務の人に調べさせてメモに書かせていた。
事務の人は「そのくらい自分でやれや」と言いたかっただろう。
さらに上の年配の人はもっとひどい。
まともに外線をとることもできない。
一番上は80代の会長だが、ここまでくると、まともに出勤できないし耳も遠いし気は遣わないしで社会的には何もできない。
要するに子供と変わらない。
僕はそんなに頑張って働いていないからいいけど、激務をこなしてる人は怒るべきだと思う。
激務をこなしてる人よりも会長のほうがはるかに報酬と待遇がいいからだ。
これらの根本原因は「甘え」だと思う。
甘えというのは共依存なので、甘えるほうも悪いが甘えさせるほうも悪い。
アルコール依存症を悪化させるのは、一番身近な家族であることは有名な話だ。
本人は苦しいが、甘えさせないことも重要なのだ。
だから僕などは社員旅行先の朝食時で当然のようにコーヒーを入れてきてくれと言われた場合も「自分でやれ」と言う。
当然のようにPCの設定をしろと言われる場合も「自分でやれ」と言う。
もちろんいつもお世話になっている人から頼まれたり、明らかに本人が出来ないことは僕がやる。
でもやろうと思えば本人が出来るのに、当然のように他人にやってもらえると思っている場合は拒否しなければならない。
そして一番重要なのは、自分が目下の人間にそういう馬鹿げた依頼を決してしないことだ。
それを良識というのだと思う。
良識があるおっさんは稀にいて、そういう人に接すると自分もこんなおっさんになりたいなと思う。
若者にそう思わせる魅力的なおっさんを人は大人というのだろう。
残念なのは大人はあまりいないことだ。
この世の全てのモノは借り物だ
なぜモノを最小限にして暮したいのか。
ミニマリストの生き方に違和感を持つ人も多いと思う。
僕も元々はモノをいっぱい持っていたし、今も最小限とは言いがたい量のモノが家にある。
もちろんスッキリした空間で生活したいということもあるけど、僕の場合、一番大きいのは「モノは墓場に持っていけない」からだろうか。
仮に僕がお金をいっぱい持っていて、モノをたくさん買えたとしても、僕はいつか必ず死ぬんだから、死んだらほとんど全て不要になる。
そう考えると、いつしか「この世の全てのモノは借り物だ」「所有なんてものはない」と考えるようになった。
だからこそ、買いたいモノを存分に買って楽しむという人がいてもいいと思う。
でも僕はそこでどうしても寂しさを感じてしまい、死を受け入れるためにモノを捨てたくなる。
そう、僕は自分が死ぬのが怖くて少しでもそれを受け入れるためにミニマリスト的な生き方をしていると思う。
もっというと、より身近に死ぬことを感じるため、死を身近に感じて生きるためだ。
そうやって毎日生きていると、自分がたった1回の人生でやりたいことに注力して生きられる気がする。
いつ死んでも少しは納得して死んでいける気がする。
もちろんこの考えが正解だという気は無いけど、とりあえずは今のままかけがえの無い時間を大事にしていきたい。
元ニートにおすすめクレジットカード
僕はバイトを始めて半年経ったくらいでクレジットカードを作った。
ネットで還元率とかを調べて良さそうなカードから申し込んだのたけど、落とされまくった。
SBIカード、東京メトロカード、などなど落ちて、一番最初に持てたのがライフカードだった。
7年ほど前の話だから、審査の状況は変わっているかもしれないけど、ライフカードは低スペックな人間に優しいカードだと思う。
それから楽天カードも持てた。
この2つのカードには恩義を感じていて今もメインで使っている。
還元率もそこそこ良い。
僕のような人はとりあえずライフカードと楽天カードの申し込みを試してみてほしい。
分かっていると思うけど、支払い方法は1回のみにしなければならない。
間違ってもリボ払いにしてはいけない。
父の日に考えたこと
今、「昼顔」とか「あなそれ」とか、不倫をテーマにしたドラマが流行っているらしい。
僕も既婚者なので不倫は他人事ではないのだけど、僕はしたいとは思わない。
僕は毎朝3歳の娘と手を繋ぎながら保育園に歩いて行く。
今日は父の日だったなと思って、娘の手を見ていた。
娘はまだまだ小さい手で一生懸命僕の手をにぎっている。
不倫するということは、この娘の手を振りほどいて女とセックスしに行くということだ。
しょうもない低スペックな元ニートの僕を、ただ父親というだけで、こんなにも頼ってくれる娘。
無事に産まれることをあれだけ祈って、何度も風邪を引きながらここまで元気に育ってくれた娘。
そんな娘がお父さん行かないでと言いながら止めるのを振り切って行くほどの価値のあるセックスがあるのだろうか。
年齢を重ねるとまた違うのかもしれない。
でも今のところ、僕はこの手は絶対に離さないと誓える。
父親でいるということは、頑張って仕事してまあまあのお金を持って帰ることじゃない。
娘の手を離さずに、いつもお母さんを大事にして、家の中では機嫌良く、話を聞いて欲しいときに聞いてくれて、一緒にご飯を食べて、一緒に寝て、優しく見守ってくれて、必要なときに厳しく叱る、そもそもそういうことが父親のすることなんじゃないだろうか。
こういう基本的なことが満足に出来ないのに、忙しく仕事するなんて馬鹿げたことだと思う。
仕事が忙しいから出来ないのなら、そんな仕事はやる必要がない。
手段と目的が逆になってるわけだから、本末転倒だ。
人の資源は有限なのだから、仕事なんて必要な分だけやって、残りは存分に自分のやりたいことに投入すべきだ。
ごちゃごちゃうるさい会社はほっといて、万が一退職を促されたら、それ自体が会社都合退職の事由になるのだから会社都合退職して自分の時間と新しい仕事を手に入れよう。
人生は一度しかない。
そろそろ自分のために生きるか会社のために生きるか選択しよう。
日本の発展よりも自分の幸せのほうが大事
先週日曜日、待ちに待ったphaさん出演の「ザ・ノンフィクション 会社と家族にサヨナラ ニートの先の幸せ」が放映された。
僕も見たが、とても面白かった。
随所にphaさんの優しさを垣間見られたし、やはりそのユルさに癒された。
見終わった後の感想としては
もう今の日本に住んでいる人間は、国の発展とか考えないで自分の幸せを大事にしたほうがいいなということだった。
もう我々は嫌々仕事して国のGDP云々ということを気にしなくていいと思う。
国のGDP云々などということは、それを考えることを仕事にしている人が考えればいいことだからだ。
そんな形の貢献は時代遅れで効果は低い。
どうしても日本という国に貢献したいなら
お金が無くてもいつも機嫌良く家族や周りの人に接するとか、誰かの何かを手伝うとか、誰かピンチの人を手助けするとか
そういう方向の貢献したほうが実質的な効果は高いんじゃないだろうか。
番組を見ていると、本当に今のさもしい拝金主義が滑稽に見てる。
今の時代「頑張って働いてお金を稼いでいい暮らしをする→その暮らしを維持するためにさらに働かないといけなくなる→頑張って働いて・・」の無限ループは本当にダサいし時代に合ってない。
phaさん達のように働いていても働かなくても少しの働きでも集まって連携を取りながら生きていく方向を選択肢にするべきだし、メジャーな選択肢になるべきだろう。
とにかくきちんと働かないと人間失格という社会は息苦しいし、そんな社会に生きたり、ましてや過労や長時間労働でその社会の維持に加担するのは個人として完全に不幸だということだ。
かつて村上龍のテレビ番組で「日本は変わらない、変わるのはあなたです」と言っていたのを思い出した。
まさにそういうことだろうと思う。
甘いだの自分勝手だのとphaさん達を批判する人たちは、勝手に自分の我慢人生を否定された気になっているだけだろう。
批判するということは、本当は今の生活が嫌で嫌でしかたがないのだ。
嫌だけど我慢して働いている自分を肯定して頭をヨシヨシしてほしいだけなのだろう。
こういう人たちのほうがよほど甘ったれだと思うのは僕だけだろうか。
こういう支配者層の支配に無自覚で従順な人たちを奴隷と言う。
かつて奴隷は、奴隷船の中で自分の足に繋がれた鎖の綺麗さを自慢し合っていた。
結婚しただのどこの会社で働いているだの、そんなことは、奴隷の鎖と同じことだ。
本当に自分の仕事に誇りを持って選択的に仕事をしている人が、phaさん達を批判するだろうか。
自分の生き方に何の後悔も無い人は、他人の行き方を批判したりはしない。
嫌な仕事を嫌々やっていて、でも貧乏で心も貧しくて、なおかつ自分の頭で自分の生き方とこの世の中を変えられない変える気も無いどうしようもない人が批判する。
差別と同じだ。
弱者がさらに弱い者を差別する。
その考えが自分や自分の子供達の首を締め付けていることに気づかずに。
もしphaさん達を見て、ムカムカしたり批判的になったりしたら、今のあなたは現代の奴隷だ。
死ぬまで搾取され続けるだろう。
永遠に今の不幸な状態のままだ。
あと、驚いたのは小林銅蟲さんがかつての僕と同じような状況にいるということだった。
僕も働かず今の奥さんと一緒に住んで、彼女の食事や弁当を作っていた。
あの頃も毎日がとても楽しかった。
小林銅蟲さんたちも楽しそうに暮らしていた。
決して恋愛を礼賛するわけじゃないけど、結婚とか一緒に住むとかいうことって
ああいう何気ない楽しさの共有が原点なのだ。
その楽しさにお金はあまり関係ない。
男にとって妻にしたい女性
山崎夕貴アナが若手芸人と熱愛したとかで好感度が上がっているらしい。
女性にとっては特別美人でなくて特別高学歴でもないということから好感されているらしい。
では男からしたらどういう存在なのだろうか。
男からすると、山崎アナは「妻」にしたい女性となる。
愛人にするには美人ではないし華やかさもないし色気もない。
男にとって愛人とは、恋人100%、つまりモノ、オモチャだ。
自分の都合のいい時に、身体と心を貸してくれればいいと思っている。
つまり美人でおっぱいが大きければいい。
では男にとって妻とはどういう存在か。
妻とは仕事仲間20%、かつ恋人50%、かつ母親30%な存在だ。
愛人と妻の違いは、構成要素の割合で決まっている。
ここで注目すべきは「恋人成分」が両方に入っていることだ。
これは、男が愛人も妻も同時に好きでいることを表している。
愛人ができたからといって妻の恋人成分は変わらない。
恋人成分を持つ対象が一人増えただけなのだ。
さらにいえば、男は別名保存と言われる理由もこれが原因だ。
新しい恋人ができても旧恋人への恋人成分は変わらない。
妻には愛人と違い仕事仲間20%が入っている。
これは、家族という会社の共同経営者であることを表している。
20%ほどの仕事能力と働きを期待しているということだ。
母親30%は、文字通り母親のように無条件に自分を受け入れてもらいたいという甘えを表している。
もちろんこの割合は各人で異なるはずだが概ねこのようなものだろう。
男はマザコンが多いから仕事仲間成分よりも母親成分を多くした。
さて山崎アナだが、彼女の経歴や人柄や容姿は、妻の構成要素をバランス良く満足しているように見えないだろうか。
仕事仲間としては、大手企業の正社員かつ抜群のアナウンス能力で十分だ。
恋人としては、そこそこ可愛くて清潔感があり楽しそうな人柄が魅力的だし、母親としては、健康そうで優しそうな雰囲気が当てはまる。
山崎アナが狙ってやっているかどうかは別にして、このようにして山崎アナは「妻」にしたい女性となる。