この世の全てのモノは借り物だ

ニート的ミニマリスト幸福論

おっさんが汚いのは甘え

日本のおっさんは臭くて汚いイメージがあるが、これは事実だ。

 

僕も30代半ばになったので年齢的には十分おっさんだと思う。

 

そして他人から見ると十分に汚く見えると思う。

 

自分の汚さは自分では気づかない。

 

誰でも毎日のように汚いオッサンを目にしているだろう。

 

通勤電車の中、職場、家の中、お客。

 

至るところで汚いオッサンを見ることができる。

 

でも自分が他人に同じように見られていないと言い切れるだろうか。

 

あなたもきっと同じように汚いオッサンと思われてはいないだろうか。

 

日本人は他人の目を気にし過ぎると言われるが、それにしては他人からどう見えるかを気にしてないオッサンが多いのはなぜだろうか?

 

僕は以前ナンパをしていた時に、ナンパ講習を受けたことがある。

 

そのナンパ講師は率直に他人から僕がどう見えているかを教えてくれた。

 

目の周りが黒ずんでいるから表情が暗く見えるんですよ。とか

 

褒められるのは禿げていないことですね。とか

 

アトピーだと生理的に無理だと女の子が思うのを覚悟して下さい。とか

 

思ったほどどもらないじゃないですか。とか

 

うすうす自分でも気になっていた自分の悪い点をグリグリされた。

 

しょうがなくてつまらなくて良くない自分を直視させれられた。

 

とても辛かったけど、これはかなり貴重な体験だった。

 

普段の生活では皆利害関係があるから、率直に容姿をどう思っているかなんて教えてくれない。

 

あなたは本当に自分がどう見えているかを知っているだろうか?

 

どんなに仲のいい友達でも、恋人でも、奥さんでも、やはり多少オブラートと包んだ言い方をするはずだ。

 

気分を害してしまってその場の雰囲気が悪くなったり関係が悪化することを避けるからだ。

 

だから、完全に客観的な容姿の意見を聞きたければナンパ講師に聞くべきだろう。

 

僕がナンパ講習を通して学んだことは、ナンパの技術ではなく、今までどれだけ奥さんに甘えていたかということだ。

 

夫婦関係があるからまたは恋愛感情があるから、奥さんは僕のことを大目に見てくれていただけで、何のフィルターもかけてない僕はしょうもない容姿だった。

 

甘えて自分の容姿を実態より高くみていた。

 

人間は加齢によって醜くなる。

 

それ自体はしょうがないのだけど、自分がどれだけ醜くなっているか、それを正確に把握して、さすがにこれ以上は汚らしくなるとマズいというラインを死守することは難しい。

 

オッサンは最低限汚らしくない自分というものを放棄している。

 

汚らしくて何が悪いと開き直っている。

 

なぜか、それは甘えているからだと思う。

 

世間に、年齢に、社会に、人間関係に甘えている。

 

でもやっぱりまともに考えてあまりに汚らしいのは醜くて人としてダメだと思う。

 

他人に対する配慮がなさ過ぎる。

 

お金は必要ない。

 

今はまともな美容室のカットでもシャンプー無しでクーポンを使えば3000円で利用できる。

 

1000円カットは未だに出来が悪いが、3000円の美容室はお任せで似合う髪型にしてもらえる。

 

短髪にしてもらえば2ヶ月に1回でまともな髪型をキープできる。

 

2ヶ月で3000円なら十分リーズナブルといえる。

 

服にもお金はかからない。

 

小奇麗な服装をすればいいのだから、夏場ならTシャツ、冬場ならシームレスダウンパーカ、それからジーンズで、身体に合ったサイズのものをユニクロで買えばいい。

 

セール時を狙えばTシャツなら一枚390円で買うことができる。

 

シームレスダウンも7900円、ジーンズだって1290円で買える。

 

小奇麗な格好になるための服の選び方は、メンズファッションバイヤーのMBさんの本を1500円くらいで買って読めば誰でも習得することができる。

 

僕は実際に自分で買って読んだが目からうろこだった。

 

写真入りで分かりやすく作ってあって、この本なら誰でも理解できる。

 

靴もニューバランスでなくていい。数千円のコンバース、お金をかけてもスタンスミスで十分だ。

 

今の時代は特別なセンスがなくても、一万円もあれば汚らしくない小奇麗な格好に必要な全てが手に入る。

 

だからあまりに汚らしい格好をしているのはいろんな意味で甘えだといえるだろう。

 

客観的な自分を直視して、そんなに気にならないなら、もちろんそのままでいいと思う。

 

ここで重要なのは、自分を肯定的に捉えることで幸せな気分で生きるということだからだ。

 

他人の目を気にし過ぎて不幸になっては本末転倒だ。

 

まずは自分が思っているよりもカッコ悪い自分を正確に認識して、それを受けれることをする。

 

そうすると、カッコ悪い自分でも生きているし、これからも生きていていいんだと肯定的に捉えることができるようになる。

 

僕の場合は、ナンパで玉砕しまくって、真実の自分を知って、自分なんてその程度のものなんだなと、心が軽くなった。

 

カッコ悪くてしょうもない自分を受け入れることができて、変に格好つけなくてもよくなった。

 

それから妻への感謝の心が生まれ、それでも少しでも小奇麗にしとこうと美容に目覚めた。

 

変な甘えを外すことで客観的な自分を直視して、自分を整える。

 

そうすることで、自分を好きになる、そこまでいかなくても肯定的に捉えられるようになる。

 

そうなれば、格好いい自分でいなきゃとか、できる自分でいなきゃとか、何者かにならないといけないとか、そういう変な自意識に縛られずに気楽に生きていける。

 

気楽に生きることは、幸せにつながる。

 

心を縛る鎧のようなプライドは捨て去ろう。

 

 

旅する人生を送りたいわけじゃない

少し前にノマドワーカーとか多拠点生活とかに興味があって、本田直之さんの本をかなり読んでいた。

 

本田さんはハワイと東京をメインに生活していて、仕事も両方でやっているそうだ。

 

ハワイでのびのびしながらサーフィンをして仕事をしているらしい。

 

その様子を写した写真などはみていてワクワクする。

 

そんな自由な生活に憧れたし、今でもいいなぁと好意的に見ている。

 

あと、本田さんはミニマリストでもあるようでLess is moreという本は電子書籍がなくて今も手元に持っている。

 

Less is moreとはミースという建築家の言葉で、本の題にするセンスもいいし何より本の中身にピッタリだった。

 

装丁もスッキリしていてとてもいい。

 

今では僕のバイブル的な本になっている。

 

でも本田さんの人生や生活を知っていくうちに、僕とは理想の生活が少し違うことがわかってきた。

 

本田さんは自由な生活をする代わりに子供を持たないことに決めているそうだ。

 

奥さんとも相談の上らしい。

 

ここが大きく違う点だ。

 

僕の敬愛するミニマリストの人の中にも、結婚を不必要なものと捉える人もいる。

 

そして子供も持たない、または持ちたくないと考える人もいる。

 

当然、それぞれの考えがあるだろう。

 

でも僕の中では愛する妻との恋愛と結婚生活や、その妻との間に出来た子供との生活は無くてはならないものだ。

 

結婚という制度にはメリットは多い。

 

今は結婚に対してネガティブな見方が強すぎるような気もする。

 

これは優先順位の問題だと思う。

 

家族との時間をゆっくりたっぷり楽しみたい、そんな僕のような人間には、人生は旅だと言われてもいまいちピンとこなくなってしまった。

 

僕にとって人生はゆっくり味わうもの。

 

それを可能にすることが、自由になるということ。

 

旅をしなくても、多拠点でなくても自由に生きる道はあるはずだと思っている。

働き過ぎは健康に悪い

働き過ぎは健康に悪いというのは当たり前のことだ。

 

それが分かっていても働き過ぎずに幸せな生活をしている人は少ないのかもしれない。

 

理由はお金が必要だからだ。

 

そしてその理由は曖昧だったりする。

 

本当にそのお金は健康で若い時代の時間を犠牲にしてまで稼ぐ必要のあるお金かどうか。

 

その精査は案外どんぶり勘定だったりするだろう。

 

若い世代のコスパ重視傾向を批判するオッサンがいて、本当に良いものを知らないのにコスパなんて分からんだろう、高価な本当に良いものを知れ、とか言うらしい。

 

時計だったらロレックスを知らずに時計のコスパを語るなとか、銀座のクラブを知らずに飲み屋を語るなとか。

 

こういうオッサン世代を見ると本物のバカだなと思う。

 

今の若者のコスパとは、もっと根本的な費用対効果のことで、例えば時計の本来の役割を考えればスマホで足りるから時計は買わないとか、飲み屋で不味いツマミに数千円払いたくないからその金で美味しいごはん屋に行こうとか、そういう意味だ。

 

こういうオッサン世代に、働き過ぎは健康に悪いから仕事はほどほどにして残りの時間は好きなことします、と言っても理解はされないだろう。

 

オッサン世代が今後変わることは無いから、オッサンの変化に期待してはいけない。

 

やるべきことは、静かに、気づかれないように、奴隷のフリをして、自分の時間を確保していくことだ。

 

レジスタンスのようにジワジワと蝕んでいこう。

 

決起にはまだ早いと思う。

 

でも仲間は今どんどん増えている。

土屋アンナ批判は女性蔑視だ

僕は何故か土屋アンナが好きだ。

 

見るからに生意気そうでキツそうな見た目だし美人だからさぞ男にチヤホヤされてきてその上男好きなんだろう?

 

という男としての防御本能が反応する反面

 

たぶんこの人は好きな人と一緒にいたくてその都度子供を作りたいという欲求に素直な人、真っ直ぐな人なんだろうな

 

と好意的に思う自分がいる。

 

そういう人を批判する人間はクソだ。とおもう自分がいる。

 

土屋アンナと比べるわけじゃないんだけど、あのエディット・ピアフも散々ふしだらな女とかいって嫌われた。

 

でも彼女の愛は率直で本物で、それを表現した愛の讃歌は素晴らしい。

 

僕には土屋アンナ批判に女性蔑視の匂いを感じる。

 

欲望に素直な女は、社会秩序の安定には都合が悪い。

 

そんなオッサンとオバサンのエゴがチラつく。

 

女子の敵は女子だなとも思う。

 

ヒラリーを落としたのはヒラリー的でない多数の女性らしい。

 

家族のためにクッキーを焼くお母さん達がヒラリーを落としたということなのだろう。

 

みんな自分の人生を肯定したいし、正しいものであると思いたいのだ。

 

誰かの人生を肯定することが自分の人生を否定することになるならば、その誰かの人生を否定することで自分の人生を肯定しようとするだろう。

 

僕も耳が痛い。

 

誰かの人生を否定することは幸せを遠ざける。

 

自分と誰かを比べた時点で不幸になることは決まっているからだ。

無頓着さが男の魅力

婚活や恋愛に関する著書を書いている川崎貴子さんによると

『自然体で、自分の強いところも弱いところもさらけ出せるような「無頓着な男性」に女は魅力を感じる』らしい。

 

最近この言葉を見かけて名言だなあと思ったのと同時に思い出したことがある。

 

先日、娘を保育園に送ったときのこと。

 

いつものように教室に入ると

娘のクラスの園児二人が殴り合いのケンカをしていた。

 

二人共泣きながら殴り合っていて、それを先生が止めようと大声を出している。

 

娘の保育園では、園児が怪我をすると先生は保護者に経緯を説明しなければならない。

 

怪我を未然に防げなかったことに対して謝罪もされる。

 

園児が園児同士のケンカで怪我をした場合、親同士の紛争をさけるために被害者側に加害者名は明かされないが、もう子供が話せるので誰にやられたかは大体わかってしまう。

 

先生もそれが分かっているかなんとか怪我をさせないように必死に止めている。

 

傷が残ったり、大怪我になれば訴訟に発展するかもしれない。

周りの子供も泣きだした。

子供も大人も自分のことで精一杯だった。

 

教室には朝の清々しさとはかけ離れた殺伐とした空気が満ちていた。

 

そんななか、一人だけニコニコしながら電車のおもちゃで遊んでいる男の子がいた。

 

この子は普段あまり言葉を喋らない。

 

こっちが話しても何も答えずにいつもニコニコしている。

 

普段は気にも留めないことだったのだけど、このときは違った。

 

彼以外の全員が教室の雰囲気に狼狽している中、彼だけは純粋におもちゃで遊ぶ時間を楽しんでいた。

 

その遊びがどれだけ面白いかを僕にジェスチャーで伝えようとしている。

 

そのとき僕はこの殺伐とした教室内で誰よりも自分の心を落ち着かせているのは彼だと思った。

 

「心配するな。こんなのいつものことだよ。それよりこの電車を見てくれ。かっこいいだろう。」

とでも言いたげな目をしている。

 

そんな彼を見て僕がまず心を落ち着かせることができたし、おそらく娘もそうだったと思う。

 

彼は大事なことに集中していて他人のケンカなんて気にも留めない。

 

そんな彼のプラスの精神状態に彼自身は気づいていない。

 

もちろん私や娘の精神状態を救っていることにも気づいていない。

 

私から見て強くてカッコイイ彼を彼自身は知らない。

 

「今君はおじさん(私)から見てこんなにかっこいいのに

それを君は分からないのか!?」

 

その知らなさ、気づいていなさ、さりげなさが

とても作為的でなくて、自然なものだからなおさら格好良かった。

 

はっきりいって僕が娘だったら彼に惚れていたと思う。

 

そのくらいあの空間で彼は魅力的に見えた。

 

女性からみて男の魅力とはこういうことかもしれない。

大金を使っても幸せになれない人達

ハリウッドセレブの月の生活費が2億2600万円だったり、大物芸能人の食事代が2000万円だったりしたらしい。

ギャンブルで数百億すった御曹司もいた。

もちろん本人の所持金なんだから使い方は本人の自由だ。

でも、僕なんかはそんな大金を使わないと幸せになれないのかと思うと、大金を得る労力を考えると、辛い人生だなと思う。

そんな大変な思いをしなくても、幸せになる方法はたくさんあるのに。

なんてコスパの悪い生き方だろうか。

その大金で何を得たのか?

一時の快楽だけだろう。

そんなもののために人生があるのだろうか。

それとも大金が人を変えるのだろうか。

 

低スペックでも幸せになるために

低スペックな人間に限らず、人は誰しも幸せになりたいと願っていると思う。

僕が知っている幸せな人の共通点は、礼節があって優しいということだ。

どう優しい人かというと、目下の人、年下の人、サービスを提供してくれる人などに対して優しい人。

上司とかお客さんとか友達とかじゃなく、優しくしてもほとんどメリットがない人に対して優しいということだ。

皆分かっていることだけど、残念ながら世の中のほとんどの人は、そういう意味では優しくない。

日本人は大人しい人種だと言われているが、これは他人に優しくて思いやりがあるということではなくて、不平不満を口にしてないだけだ。

心の中では汚いことを考えていたりする。

ネット掲示板を見れば一目瞭然だろう。

デモも暴動もなくて犯罪率は低いけど、同調圧力が強くて行動に起こせないだけだ。

日本人は素晴らしい面も多いけど、そういう意味では非常に陰湿な人種だと思う。

優先席で妊婦さんに席を譲らずに寝たふりをするやつ、飲食店で店員に横柄な態度を取るやつ、年下というだけで自分より格下に扱うやつが多すぎる。

こういう人間は普段何を考えて生きているんだろうか。

正月に初詣に行って一年の平安と幸せを神様にお願いしたんじゃなかったのだろうか。

なぜ神様へのお願いと日頃の行いが無関係になるのか?

神様に自分の幸せを願っておいて、他人に対して平気で無礼な態度を取るやつは一生幸せになることはできないだろう。

自分の幸せを願うのなら、まず人が見ていないところで他人に親切にすればいい。

こういうことができる人は、低スペックでも幸せになれる。