人は性愛がないと幸せになれないのか?
「どうすれば愛しあえるの: 幸せな性愛のヒント」宮台 真司, 二村 ヒトシ著
について、というか宮台さんについてネット上では誤解が発生しているので確認のために書いておきたいことがある。
それは、本を読んだ感想として「人は性愛がないと幸せになれないのか?」という疑問についてである。
とにかく「性愛」ありきで話が進むので「性愛」を持たない人は置いてきぼり感を感じるだろうし、その恋愛主義的に見える姿勢に反発もあるだろうと思う。
このような感想をネット上でけっこう見られたし、私も当初は同様の感想を持った。
私は宮台さんの本をいくつか補完しながら読んでいるので性愛についての考え方を少しは知っている。
また、私は宮台さんの影響でナンパを実践した。
なので座学と実践の両面からある程度は立体的に宮台イズムを感覚的に理解できていると思う。
その上で、一般人の私の読書感想としても、全ての人が「性愛」を必要とはしていないのではないか?「性愛」が無くとも幸せなひともいるのではないか?と思わなくも無い。
しかし、それは全く誤解なのだ。
男女の恋愛やモテというような限定的範囲を性愛というなら、上記の感想や反発はその通りということになる。
しかし、宮台さんのいう「性愛」とは男女の恋愛やモテという範囲ではなくもっと広い意味の言葉なのだ。
もちろん性的な関係を表す言葉なので、「ストレート同士」の関係だけでなく「セクシャルマイノリティ同士」の関係も含まれる。
ただ、それだけでなく家族や親しい友人、仲間、師弟関係などのその他人間関係全般についても範囲内なのだ。
どういうことかというと、「性的な良い関係を結べる能力」はイコール「その他様々な関係を良いものにする能力である」ということなのだ。
なにも性的な関係についてだけ論じているのではなく、あくまで性的な関係を入口にすると分かりやすいし、訓練もしやすいということなのだ。
だから、宮台さんとしてはもちろん「性的な意味での性愛なしに幸せになれる人」は存在することは分かっているわけで
でも実際多くの場合、性的な意味での性愛訓練がその他の良き関係においても役立つのである。
それに誰しもが能力を開花できる可能性を秘めているんだから単純にオススメしているだけだよということだ。
この姿勢は決して恋愛至上主義ではないし、社会学者の提案として自然なことと思う。
この点は読者としてはとても重要な確認事項だろう。
ちなみに、もちろん忘れてはならないことは、恋愛至上主義のように挑発して見せてあえて反発を誘発して自分のほうを向かせるのは宮台さんの得意技だし、とてもナンパ的な戯れで楽しい。
この戯れを楽しみながら、人間関係の成熟手法を勉強するのが乙な宮台さんの味わい方だろう。
ただ、「人は性愛がないと幸せになれないのか?」という点については、無くても幸せな人はいるだろうと思う。
この点では宮台さんは一貫してお節介であるとしても性愛の必要性を説いている。
そして、今の若者を昔の人間より性愛の能力が下がった者として捉えていて、わりかし否定的だ。
私はこれには賛成できなくて、例えばphaさんのように結婚とかせずに負担を少なく生きることを自分の幸せの方向性だとして意識的に選択している人は、それはそれで正しい判断だと思う。
それこそ、社会形成前の人類の祖先にもそういう人はたくさんいただろう。
つまり宮台さんは内面的にかなりマッチョであり、そもそも欲望の少ない人や他人とフュージョンなどで深く繋がるのが嫌な人の代弁はできないのだ。
私はそんなアンチフュージョン系、アンチダイブ系の人は結構な数いると思う。
それにそういう人が増えているのであれば、それはこの時代に適応した結果(社会への最適化という意味ではない)である可能性もあり、もはや中年のおじさんが何やら言及することでもないだろう。
セックスレスを治す方法
「どうすれば愛しあえるの: 幸せな性愛のヒント」宮台 真司, 二村 ヒトシ著
すばらしい本だった。
私はわりかし男女の性愛について考えをめぐらすことが好きなのだけど、最近気になる問題は「セックスレスを治す方法」だった。
男性側が原因のセックスレスである。
その有力な答えがこの本に書かれている。
私は結婚してから子供が生まれるまでの1年間、妻とセックスレスだった。
妻は子供がほしくて、タイミング法で何度もトライした。
タイミング法とは排卵周期を予想してセックスとタイミングを合わせる不妊治療の第一ステップである。
しかし、何度試しても私は勃起しなかった。
むしろ、寄ってくる妻を煩わしいとさえ思っていた。
その頃のことを妻に聞くと、妻が子作りの話をすると、私はあからさまに「またその話か」という態度をしていたらしい。
私は自分も傷ついていたけど、それ以上に妻を深く傷つけていた。
今では深く反省して妻に申し訳なく思っているが、その当時は私には為す術がなかった。
これは身に覚えのある旦那さん方も多いことと思う。
セックスレスの男性側の原因ははっきりしている。
それは、妻を家族にしたからである。
何かの映画か本で聞いたセリフに
「妻を抱くなんてそんな変態みたいなことできるか」というものがあった。
これは男のセックスレスの原因を端的に示していると思う。
メカニズムはこうだ。
男は結婚する過程で、少しづつ他人の異性を家族区分に受け入れる。
→家族区分に入れた妻は、親や兄弟や子供と同じカテゴリになる。
→家族は性的な対象ではないので同じカテゴリに入れた妻を性的に認知できなくなる。
→その状態が続いて妻を性的に感じる感覚の感度が低くなる
→さらに続いて感度がほぼゼロになる
このセックスレスの発症メカニズムや原因は、早い段階で分かっていた。
しかし、治し方が分からなかった。
私は当時ある方法を試した。
それがこの本に書いてあったので、だからあのころ試した方法でセックスレスが治ったのかー、という感じで感激したのである。
結果的に私はセックスレスから脱出して、妻と愛のあるセックスの末に子供をもうけることができた。
その方法は、妻以外の女性とセックスすることである。
本の中では「旅をする」と表現されている。
旅とはもちろん旅行することではなく、妻以外の女性と交わることである。
なんだ不倫野郎かよと思わないでほしい。
ここでいうセックスとは、何もペッティングしたり挿入したりということではない。
私の場合は、妻のことを傷つけたくないし本当に大好きだったので、妻以外の女性と肉体関係にはならなかった。
では何をしたかというと「会話」である。
いろんな女性と話した。
ナンパもした。
悩みを聞いたり話したり、見ず知らずの女性に声をかけて拒絶されたり。
異性の反応を自分に投影して、彼女になりきってみて心を通わせた。
そうして何か閉じていた感覚が蘇ってくる感じになり、妻に欲情して付き合い始めの頃のように何度もセックスできるようになった。
これを本の中では、「感覚を回復させる」と表現されている。
この機能が劣化した感覚を回復させるという考えが目から鱗だった。
妻も回復した私に呼応するように欲情してエロティックになってさらに魅力的な女性になった。
かつて田口ランディが「女は旅をする男が好きなんだ」と書いているのを見たが、初めてその意味を理解することができた。
つまり、精神的な部分で不特定多数の女と交わり性的な快楽を感じるためのアンテナの感度を高めている男を女は好きだし、そういう男はモテるのだということだ。
セックスレスはとても辛いが、あなたが悪いわけではないのでどうか自分を責めないでほしい。
また、セックスレス男性は自分を責めると、心の中で奥さんのことも責めてしまう。
この女に魅力がないからじゃないかと。
しかしその批判は完全に的外れだ。
奥さんを責める理由は、自分の機能不全を人格的な欠陥だと思い、それに耐えられなくて辛さを回避するために奥さんを責めるようになるからだ。
自分を責めるのをやめれば、自分の奥さんに魅力がないからだという奥さんへの怒りのような感情もなくなる。
セックスレス中の男は本気で奥さんに魅力がないのだと感じるが、本当のところでは奥さんに魅力が無いわけではないということを忘れないでほしい。
魅力がないと思うのは、魅力を感じにくくなっているだけなのだ。
つまりセックスレスにおいては、あなたも奥さんも悪くないということだ。
セックスレスは結婚制度と恋愛感情のそもそもの不整合が原因であり、それはシステムエラーなので、個人の運用ミスではない。
例えばパソコンだって、OSのバクは個人にはどうしようもないし、個人の入力ミスが原因ではない。
これらのことに気づいて感覚を取り戻せば、あなたは回復した人に変われる。
あなたとあなたの素晴らしい奥さんのために、ぜひこの本を手にとってトライしてほしい。
あなたの奥さんへの愛は必ず取り戻せる。
そして、あなたはまた奥さんが大好きなあなたに変わることができる。
友達はいらない
友達という存在について考えると色々なことに思いがめぐる。
昔読んだ本の中に「自分の誕生パーティに何百人も人が来てくれる」という人気者の人が出てきた。
その人は毎晩、他の人の誕生パーティに出ているらしい。
その人が人気者なのか孤独な人なのかは分からない。
本人が満足ならそれでいいじゃないかという気もするし、人気者に見える人が孤独を感じていたり、孤独に見える人が満ち足りた人生を歩んでいることもあるだろう。
漫画家の蛭子能収は著書の中で「遊びの誘いを断れない人が友達ではなくて、遊びの誘いを断れるのが友達なんだ」ということを言っていた。
僕もその通りだと思う。
何事も強制しない、自分の都合を優先しても良好な関係を保てる関係が友達なのだろうか。
何かのインタビューで読んだのだけど、最近のドラクエがオンラインで繋がるのがお気に召さなかったようだ。
「ゲームは他人と繋がらず一人で楽しむのがいいんだ」というようなことを言っていた。
淡路恵子さんは放蕩息子がいたり家族関係に恵まれなかったようだから、ゲームをしている時は何にも縛られない穏やかな時間を過ごしていたのだろう。
一人の時間を大事にしたい人がいるのだったら、その時間を尊重したほうがいい。
Phaさんは、自分の家に友達が来る予定になっていた場合にドタキャンされても怒らない。
「予定していても来たくなくなったら来なくていいし、来たかったらくればいい」というようなことを言っていた。
僕も完全に同意する。
僕も遊びとか小さな約束なら破られても全然気にならない。
でも小さな約束でも守られないと不快な人がいるから、自分が行くときは極力守るようにしている。
だから僕はあまり約束をしない。
筋トレで有名なテストステロンさんはツイッターで
「あなたを大事に扱わない人を友達と思う必要な全く無いしそんな人間に自分の貴重な人生の時間を使うことはやめよう」というようなことを言っていた。
その通りだと思う。
人生の中でこんなふうにお互いの大事な時間を大切にできる友達はそう多く出来ないだろうし、むしろ一人もできないのかもしれない。
一人もできないなら友達は無くてもいいのだと思う。
むしろ友達は多ければ多いほど良いというのは幻想なのだから、そんな洗脳に縛られる必要はない。
黒田官兵衛の「天下に最も多きは人なり。最も少なきも人なり。」という言葉を思い出す。
結婚をオススメしない理由
「持ち物を増やすと身動きが取れなくなる」
これはスナフキンがズボンを試着して結局買わなかったときに言った言葉らしい。
ズボンに限らず自分の自由を縛って身動きを取れなくする存在はたくさんある。
物に限らず、人間関係も同じだ。
奥さんがいて子供がいれば楽しくて愛おしいけれど、残念ながらメリットばかりじゃない。
自由を脅かす存在であることは明らかだ。
ものごとにはメリットとデメリットがある。
奥さんがいれば、夫婦関係を良好に保たないといけないし、子供がいればお世話しないといけない。
だから僕は結婚して子供もいるけど、同じことを他人には全くオススメしない。
家族は基本的に面倒くさいものだ。
これは歴然とした事実だと思う。
日本では未だに結婚して一人前もような雰囲気があるけど、人としての成熟度と結婚は何の関係もない。
周りを見渡しても、結婚しているしょーもない人間であふれている。
どうしても誰かと一緒にいないと嫌だとか、どうしても子供がほしいとか
そういう考えがなければ、無理に結婚しなくていいと思う。
むしろ自由を奪われるリスクとして結婚を捉えるほうがいい。
世の中は結婚をさせようと必死に仕向けるからだ。
ちょっと油断していると、ついつい結婚したほうがいいのかなー?と思うように出来ている。
結婚という制度によってブライダル業界とか住宅業界とか国家とか、いろんな人が潤うからだ。
そのこと自体は悪いことではなくて、皆そうやって誰かの消費に支えられている。
問題は、自由を奪う制度を無自覚に使う必要はどこにもないということだ。
本人の意思で選択的に結婚するなら何の問題もない。
結婚する人生もスナフキンのような人生も同じく尊いのだと思う。
理想は、村上龍の本の副題か何かで見た「遠く離れてそばにいて」という状態じゃないかな。
すれ違いざまに舌打ちす人から思ったこと
その人を批判しているわけじゃない。
今日会社からの帰り道、僕が駅の階段を降りてるとき、幅が狭くて邪魔だったのか反対方向から来た人がすれ違いざまに舌打ちをした。
それはもう、前を塞ぐ形で歩いてきたイライラの原因である僕の耳に叩き込んでくるかのような絶妙なタイミングだった。
凄いいいタイミングだな、職人のようだ、と感心するのと同時に、何も立ち塞がってるわけでもなし狭い階段なんだし、嫌なことをするなよなぁと悲しい気持ちになった。
よく見てなかったけどその人は小奇麗な服装のおばさんだったように思う。
舌打ちなんてしなさそうな人なのに人は見かけによらないものだなと思った。
その人は僕が邪魔だったのだろうから、おそらく僕にその場所を歩いてほしくなかったのだろう。
でも駅の階段は公共の場所なんだから誰でも営業時間内で変な歩き方でなければいつでも歩いていいはずだ。
だから彼女の考えは甘えだということになる。
それで思ったのは、舌打ちをされて気分が悪くなるということは、僕も他人に変な期待していて、おばさんと同じように他人に甘えてるなということだった。
僕が他人との付き合い方が上手いなーと思うphaさんは、自分と他人は違う動物くらいに違う生き物だと思ってると言っていた。
僕はさすがにそこまで思えずに、違う人間だからなー、くらいに思っているけど、phaさんくらいの心構えもいいなと思った。
他人に期待しないから対人関係は楽なはずだと思う。
そして、このスタンスは僕の好きなお釈迦様の考えと似ている考えでもある。
他人も社会も自分の都合の良いように動いてはくれないし変わってもくれない。もしそう思うならそれは傲慢というもの。というようなことをお釈迦様は言っている。
お釈迦様は、川が流れるように、自分の都合とは関係なく勝手に他人は他人の都合で動くのだから、まぁ気にせずほっとくのがいいよ。とアドバイスしていて、気にせずほっとく方法を瞑想とかの形で色々残してくれている。
改めてお釈迦様はミニマリストだなぁと思うのと同時に僕はまだまだ未熟で、だから生きるのが苦しくてめんどくさいのかなぁと思った次第だ。
最近特に家族の病気が見つかったりして、もう人生が苦しくてキツくてしょうがない。
でも、そもそも自分の都合の良いように人生が運ぶわけないのだから、まぁ自分の人生終了までは他人に期待せず楽に生きたほうがいいと思った。
あと、自分の人生にもさほど期待しないようにしようと思う。
そうすれば他人と自分両方に期待しないことになって、全てのことを川の流れのように感じるようになれるのではないだろうか。
苦しくなくて楽な人生にしてくれって感じだ。
テレビの視聴率低下は国民にとっては朗報
フジテレビの中村仁美アナウンサーが人事異動を理由に退職するかもしれないというニュースを見た。
最終的に退職するかどうかは分からないけど、ニュースになってるんだから人事異動の内示が出たのは間違いないのだろう。
ここにも日本のマスコミの迷走ぶりが見れる。
異動先は営業なのだそうだけど、そりゃ辞めるだろうと思う。
アナウンサーは専門職であり、専門性を発揮することとそれを高めることが仕事であるのだから、いきなり営業という別の専門職に異動ということは、今までのアナウンサーとしても仕事を否定されたということだ。
つまり会社の都合で新卒に戻ったつもりで頑張れといわれているようなものだ。
そんな会社の都合なんて知らんわと、今まで培った専門性を武器にフリーでやっていくというのは正しい考えだと思う。
もちろん会社も彼女がそう考えることを想定済みだろうから、事実上の解雇なのだろう。
つまり会社は若手でなく母親である彼女よりも、ピチピチの若いアナウンサーのほうが安いし使いやすいしこっちを残そうと考えたということだ。
たとえアナウンスという能力が低くても。
会社はこんな卑怯な形で解雇をするなら、彼女を真っ当に会社都合で解雇しろと思う。
まったく馬鹿げた対応だし、この時代にまだそんなことしてるのかという感じだ。
フジテレビは社長が変わったらしいけど、そういう昭和体質は何も変わっていない。
アナウンサーは別にピチピチの若い美人でなくてもいい。
視聴者はそんなこと望んでいない。
テレビ局は視聴率を取れなくてスポンサーが集まらず収益が悪化すると心配しているのだろう。
でもむしろ本格派のアナウンサーだけで番組を構成したほうが視聴率を取れるのではないだろうか。
テレビ局の人間は、そんな硬派なことしてもバカな国民には受け入れられないと思うのだろう。
つまり国民はテレビ局にバカにされているのだ。
テレビ局は視聴率至上主義だというが、僕はそれで良いと思う。
だったら視聴率が良くないことを番組の質以外に求めてはいけない。
なぜかというと、本当に良い番組は視聴率を取っているからだ。
視聴率とアナウンサーの年齢に相関関係があるとは思えない。
視聴率は番組作りで決まるのではないのか?
だから視聴率が良くないということは、番組の出来が良くなかったということを表している。
若者のテレビ離れとか言って責任転嫁しているしょうもない番組とテレビ局はどんどん視聴率が下がって倒産の危機を迎えるべきだ。
テレビの視聴率の低迷がたびたびニュースになるけど、それはテレビ業界人にとって悪いニュースなだけであって、一般の国民が嘆くことではない。
むしろメディアの多様化が進んでいることを表しているのだから健全なことであり一般の国民にとっては良いことだ。
最高裁は労働基準法を守った
病院と勤務医との間で、残業代未払いの有無を争う裁判があったらしい。
年俸は1700万円で、医師側は時間外労働分の賃金が含まれていないから残業代が未払いだと主張していて、病院側は残業代を含むと主張していたそうだ。
で、1審2審は病院側を支持した。
医師という職業は、労働と研究を時間の隔てなくやっていて時間の裁量ができるため、通常の勤務時間と残業の区別ができないから、というのがその理由だった。
区別できない以上はあらかじめお金を上乗せして払っておけば問題ないというものだ。
これを最高裁は、労働基準法の原則に立ち返り、通常の勤務時間と残業を区別しなさいという判決を出した。
残業代を計算させるために2審に差し戻したらしい。
素晴らしい判決だと思うし、1、2審の判決と真逆の結果となったことに恐ろしさも感じる。
この医師の残業代未払いを認める1、2審の判決が何故ダメなのか。
まず、実際には医師に勤務時間の裁量権はないからだ。
これは他の職種の管理職も同じだけど、実際に勤務時間の裁量がないのに残業を認めないのはおかしい。
そもそも病院スタッフは皆シフト制だろう。
それなのに医師に勤務時間の裁量権なんて無いに決まってる。
あらかじめ決められた時間に通常の勤務をして、論文は平日夜とか休日に自宅で書いているはずだ。
これは他の研究職の人にも当てはまると思う。
決められた勤務時間以外に病院で通常の仕事をさせたなら残業代を払うべきだ。
2つ目の理由としては、時間外労働を認めないとなると、経営者は労働者を定額でいくらでも働かせることができるからだ。
いくら高額の年俸だといっても、1700万円だ。
これが1億2億とかなら数年我慢してリタイアしようという作戦もありだけど、1700万ではリタイアするほどの貯蓄にはならないだろう。
定額使い放題は許してはならない。
その先には必ず過労死が待っているからだ。
3つ目の理由として、現在似たような研究職っぽい仕事全てに医師の残業代未払い制度が準用されていると思われるからだ。
よく、残業代が出ない言い訳として「お医者さんもそうだから」というのが出てくる。
実際には研究職とは程遠い私の面接時でも言われたくらいだ。
友人は財務部だが似たようなことを言われたらしい。
医者と一緒にすんなやボケっ!と思ったが受け入れざるを得なかった。
だから今回の最高裁の判決は素晴らしい。
医師の労働環境だけに留まらず、他の全ての労働環境に良い影響があると思う。